科学者であり信者である

新聞記者が記事の中で伝えなければならないことを表した、5W1Hという言葉があります。英語のWhat、When、Where、Who、Why、How(なにが/いつ/どこで/だれが/なぜ/どのように)の頭文字を取ったものです。僕が科学の定義だと思っていることは「WhatとHowが同じであれば残りの4Wに関わらず同じ結果が起こること」です。例えば、それが2000年に科学的関心のために地下実験施設で行われても、1945年の広島上空で破壊と殺戮のために行われても、使う物質とやり方が同じであれば核分裂は起こります。誰にでも平等に起こることが科学なのです。また、僕は科学を「間違いないもの」だと思っています。これは「正しく普遍なもの」とは違います。とりあえず現在までのところ誰がやっても同じ結果になっているものであって、これ以後もよっぽどのことがなければそれは変わることがないだろう、という程度のものです。

ここ最近は宗教と科学の葛藤が問題になっているようです。アメリカには義務教育で進化論を教えることを禁じる州があります。人間は、神の姿に似せて作られたアダムとイブの子孫であるというキリスト教と、猿から進化したというダーウィン進化論とが食い違うからです。もちろん、誰かが言ったように「神は猿の姿をしていた」と言えばいいのかもしれませんが、ダーウィン進化論では猿よりも以前、単細胞生物にまで子孫をさかのぼることができます。キリスト教を「正しく普遍なもの」だと信じている人々の猛抗議をきっかけに、この対立を回避するために学校では進化論を教えないことにしたというわけです。親が子供に信じ込ませたいことを家で教えればよいことになりました。

科学者の中にも日曜日には教会に通い、キリストの復活の日が来ることを信じている人々が多くいます。それらの人たちは、科学者としての自分と、信者としての自分を、どうやって折り合いつけているのでしょうか。最新の現代医学をもってしても人は死んだら生き返りません。それは科学です。現在のところ逆立ちしても復活は有り得ないのです。平日は研究室で科学を行い、日曜日には2000年前に死んだ人間が生き返ることを信じてミサに通う人々は、僕が想像できないほどにはっきりとビジネスとプライベートの区別ができるのでしょうか。そしてそれらの人々は、自分の子供には何を教えているのでしょうか。