ABOFANという血液型による性格判断を支持するサイトがあります。そのサイトの管理者はすごく勉強熱心で、できるだけ客観的に判断しようとしているので好感が持てます。でも本職の科学者じゃないようで、こじつけともとれてしまう表現が多いのも事実。そこに本職の科学者である心理学者が疑問を投げかけたところから面白い議論に発展しました。最近の行き過ぎな血液型による性格の決めつけを考えるだけでなく、学者というのはどういうものかを考えさせられるものでした。その中で印象に残ったのが二つ。
まず、研究者が素人に物を説明したがらないことの理由。研究者になるまでには学部・院をあわせて10年近い歳月をかけています。そして博士号を取得しても、ようやく立ち上げれるようになったばかりのつたい歩きの赤ん坊状態。でも、そうやって勉強してきた基礎知識があるという前提でほかの研究者と議論ができるようになります。素人には前提となる基礎知識から説明しないといけないのがとても大変。それに時間を割くんだったら自分の研究を続けていたい、という理由。ただ、それが「反論がないからこの理論は正しい」という証明にはならないよ、というふうに文は続きます。
次に、「学者は冷静に研究していると思われがちだが、自分はつい感情的になってしまう。学者は生活と人生のすべてをかけて挑んでいるんだから。」というような文。そうだよね、プロだもん、生活と人生のすべてをかけて、未知の領域を切り開いてるんだよね、と関心。そういえば自分も、モントリオールに来てからの方が研究に熱が入っているなぁ、と。スポンサーからお金が出ていて、それで僕は授業料が支払えるわけで、研究成果が出なければ今の生活と将来を失うことになるのです。そりゃ必死だわさ。同じ研究室の韓国人は奥さんに子供二人いて、そりゃもう死にものぐるいで勉強していますよ。彼の場合は手に職が付いているので(サウンド・エンジニアなので)途中で大学やめちゃおうかなーなんてことも言ってますが。